ふんせん・もりよししんのう
 
   

  
 護良親王は、後醍醐天皇の皇子で大塔宮と呼ばれ武芸を好み剛勇の人で、元弘の乱では父天皇を援け、楠木正成と相並び官軍勝利の先駆けをなした。
 還俗して護良親王と改名し建武新政では征夷大将軍に任じられ「公武一体」の政府を目指していたが、武家再興を企む足利尊氏の陰謀に陥り後醍醐天皇により鎌倉へ幽閉され、後に中先代の乱で足利直義の命を受けた淵野辺義弘によって惨殺され短い生涯を閉じた。しかし、相模原市淵野辺の護良親王伝説によると義弘は親王を殺すに忍びず自ら親王を守り鎌倉由比ヶ浜から船で石巻へ逃れたという生存説が語り継がれている。
 このねぶたは護良親王の生存伝説をもとに、親王の無念を晴らすために逆転の発想で以下のとおり書かれた著書を参考に表現したものである。
 護良親王は石巻に逃れたあと奥州将軍府で尊氏討伐の時局を窺っていた、尊氏が建武新政府に反旗を掲げると満を持して足利討伐に決起し北畠軍と共に京都へ向かった。決戦当日、八騎を従え鴨川に馬を乗り入れた護良親王は、劣勢に慌てふためく尊氏に迫り太刀を抜き放ち本懐を遂げた。そして親王に群がる諸将の熱い期待を感じ、明るく希望に満ちた平和な世の中に導いたという。
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